(2022年3月23日)
1 直感から文法へ
日本語で表現できる新しい用語が作られてきて、日本語の語彙は豊かになりました。書く側もそれに伴って表現の領域を広げていくことになります。こうした現象は、近代日本語の開発過程で起こったことでしたが、日本語に限ったことではなかったようです。
シュークスピア時代の英語について、渡部昇一は『英語の歴史』に記しています。自国語である英語に対する意識の変化がありました。
▼Shakespeareが生まれたのは1564年とされるが、その頃までのイギリスの著作家たちは、まだ国語の貧弱さを嘆いていた。書物の序文から見ると1560年以前のイギリス人たちは、英語は不毛で、野蛮で野卑(barren,barbarous,inelegant)であると言って嘆いているが、その後25年間、1585年まで頃の書物の序文では、英語は豊かで、洗練されて、祐が(copious,refined,elegant)であって、その点ヨーロッパのいずれの言葉にも劣らないという自信を示している。Shakespeareはいわば、こうした国語に対する自信が生じた雰囲気の中で書きだしたのである。 p.249 『英語の歴史』
英語に対する自信に基づいて書かれたシェイクスピアの英語は、どういう英語だったのでしょうか。渡部は言います。[Shakespeareの英語を、現代文法を物差しにしてみれば破格だらけである。しかし正しくは破格ではなくて、まだ固まっていないのだ、と見るべきである](p.252)。
まだシェイクスピアの時代には、文法が確立していなかったということです。その一方で、用語は豊かでした。それではどうやって記述していたのか、渡部は続けてこう書いています。
▼彼の時代の人たちは、Purismによって国語の意識を吹き込まれ、Humanismによって豊かになった語彙を持ち、あふれるほどの表現意欲を持っていた。その上、中世末までの文法教育はラテン語中心で、土着語は文法教育や文法研究の対象になっていなかったから、作家を規制する文法規範は、文法書にある規則でなくて直感であった。作家は自由に感じていたのである。あふれるほどの活力と、感じられないほどの弱い文法の制約-これがエリザベス朝英語の特質である。 p.252 『英語の歴史』
Purismとは「(言語などの)純粋主義」とのことです。この時代に用語がどんどん豊かになり、表現意欲もありました。そのとき書く側を規制する規則はなかったのですから、好き勝手に書いたのです。いまから見れば[破格だらけ]ということになります。
逆の言い方をすれば、あふれるばかりの言葉が使われるようになって、始めてルールが出来てくるということです。この点について渡部昇一は『英文法を知ってますか』で、シェークスピアの次の時代で起こったことを記します。
▼シェイクスピアの英語は自由奔放で文法など気にした様子はないのに反し、シェイクスピアより約十歳ほど若いジョンソンの頃になると、世の中が一般的に古典主義に傾いてきて-古典主義というものには規則重視の要素がある-英語にも規則を求める風潮、つまり英文法を意識する風潮が出てきたと言うのである。これは英語を豊かにするために、どんどん古典語などからの借入語を入れようと努力し、それに成功した段階が終わって、「英語にも規則を」つまり「英語にも文法を」という国語意識が強くなった段階に入ったということである。 p.156 『英文法を知ってますか』
言葉を豊かにしていき、それがある段階に達したときに、文法ルールが意識されるようになるということです。
この点について、『英語の歴史』で渡部昇一は[表現の面から言って、「ロマンティック」ということは規制よりは表現意欲が勝っていることであり、「古典的」ということは、抑制が利いているということである](p.254)と記していました。
シェイクスピアは1564年に生まれ、1616年に亡くなりました。ベン・ジョンソンは1572年に生まれ、1637年に亡くなりましたから、時代が重なっています。シェイクスピアの追悼文を書いたとのことです。
渡部昇一は『英語の歴史』の中で、日本語について、[この英語の発展段階を見ると、現代の日本語はShakespeareの頃の英語にあたるのではないかという印象を受けることがないでもない](p.252)と語っていました。
『英語の歴史』は1983年に出版されています。まだこの時点では、日本語の成熟は十分でなかったということでしょう。成功事例はあっても、全体として見ると、まだ近代言語としての確立がなされたとは言えないという判定でした。
同時に豊かな言葉をもった日本語が、規則を作っていく段階に入っているということでもあります。自由に表現したものの中から、標準化される表現形式が生まれてきて、文体が成熟していく流れはできたということにもなりそうです。
2 先駆的な文章家の誕生と翻訳
新しいルールで書いて成功している先駆的な事例というのは、かえって現在から振り返ったほうが見えやすいのかもしれません。現代人の感覚で読んでも古くなっていない文章があるはずです。たぶん多くの人が思い浮かべる作家がいるのではないでしょうか。
『司馬遼太郎全講演[2]』所収の「文章日本語の成立」という1982年の講演録で、司馬遼太郎は語っています。[結論を言いますと、明治期に夏目漱石が、だいたい多目的の文章を考案したということを言いたいんです](p.182)。
さらに2年後の1984年に司馬は「日本の文章を作った人々」という講演録で、夏目漱石について語っています。
▼漱石に至って、初めて文章日本語は成立します。『坊つちゃん』のような軽妙な小説も書ければ、『こゝろ』のような深刻な問題も書ける文章を開発した。恋愛も書けるし、文学論もできる文体です。漱石は偉いですね。日本語の恩人だろうと思います。 p.386 『司馬遼太郎全講演[2]』 朝日文庫版
日本語の新しい可能性が漱石によって開かれた感じがします。[しかし漱石は天才でした][同時代の人ではまだ、漱石についていけませんでした](p.386)と司馬が語るように、すぐに日本語が成熟したわけではありません。しかし大いなる可能性が開けました。
こうした先駆的な文章を書く人が出てきて、文章が発展していくことは、日本語に限らないようです。ラテン語の場合も、発展の契機になった人がいました。樺山紘一は『ルネサンスと地中海』で十五世紀フィレンツェの著作家マテオ・パルミエーリの文章を引いています。
▼洗練されていないために長年、嘲笑の的だったラテン語が、古代の純粋さと美しさと荘重な律動で輝きはじめたのは、われらが時代の[フィレンツェの文人]ブルーニのおかげだ。 p.17 『ルネサンスと地中海』(『世界の歴史』16)
ここにあげられたブルーニという人はどういう人だったのか、樺山は同じ本に記しています。
▼ブルーニはおそらくイタリアとヨーロッパで最初に、古代ギリシア語を正確に理解した文人であった。1396年にフィレンツェで始まるギリシア語講座に、三十歳に近い学生として学び、たちどころにこれをマスターした。翻訳作業を着実に進め、相次いでラテン語訳を作成した。プラトンもアリストテレスも、そして喜劇作家アリストパネスも。 p.64 『ルネサンスと地中海』(『世界の歴史』16)
その後、[27年から44年までの十七年間、彼は市の行政を統括するかたわら、なおも学の進展をおもんぱかった](p.64)、[1404年にはじまり、死に至るまでの四十年間、ブルーニは絶やさずに、『フィレンツェ史』の筆をはこびつづけた](p.65)のです。
ブルーニの文章を際立たせるのに、古代ギリシャ語の知識と翻訳作業が影響したことは間違いないでしょう。これは英語教師だった漱石の場合にも、あてはまりそうです。英語の知識が、漱石の日本語の文章に影響を与えずにはおかなかったでしょう。
3 加賀野井秀一による『吾輩は猫である』の文章の検証
加賀野井秀一は『日本語は進化する』で、漱石の『吾輩は猫である』を使って、[この作品の中に、翻訳から生じて来たと思われる新たな表現を探し出し、それらの表現によって従来の思考法がどのように変化してきたのか](p.67)を確認しています。
加賀野井が[翻訳の影響をこの書によって実証しようというわけではない](p.67)と書いているのは当然ですが、しかしここでは、漱石の文章に限定して考えれば十分です。この書の文章を確認するだけでも、漱石の文章の特徴がみえてきます。
『吾輩は猫である』は明治38(1905)年に出版された当時のベストセラーでした。この文章が当時の人に受け入れられたのです。読者が無理をして背伸びして読んだ文章ではなかったでしょう。それでいて圧倒的に近代化された文章でした。
司馬遼太郎が言う通り、多目的に使える文体になっています。しかし同時に、まだ当時でも、日本語に必要な用語が足りていなかった点には注意が必要です。
この点、加賀野井は[漱石が書き残した四〇年代の覚書]を引いています。以下のように、[なんとも奇妙な]と言える文です。
▼俗人ハ causality ハ independent に exist シテ居ルト思フ p.134 『日本語は進化する』
[漱石が英語で書いた部分を現代の語彙に訳してみると、順に、「因果性」「独立」「存在」](p.134)ということになります。これがなぜなのか、漱石が自分で語っていました。加賀野井は、明治40(1907)年の漱石の談話「将来の文章」から引用しています。
▼私の頭は半分西洋で、半分は日本だ。そこで西洋の思想で考へた事がどうしても充分の日本語では書き現はされない。之れは日本語には単語が不足だし、説明法(エキスプレツシヨン)も面白くないからだ p.133 『日本語は進化する』
[つまり漱石にとって、先程の英語で書いていた部分には、そこに入れるべき適当な日本語がなかったということになる](p.134)と加賀野井が書いている通りでしょう。まだ語彙の面でも十分とは言いかねる時代に、漱石は新しい文体を提示しました。
漱石の文章の特徴は、どんなものだったでしょうか。加賀野井のあげている主なものを見ていきましょう。
(1)[西洋風に、主語が多く使われる](p.68)
(2)[人称代名詞や所有形容詞の使用](p.68)
(3)[指示代名詞や指示形容詞](p.68)
(4)[無生物や抽象名詞が登場したり、さらには、「何々するのが」といった表現が主語](p.68)
(5)[動詞構文を中心とする日本語にあって、西洋流の名詞構文的な考え方](p.69)
(6)[名詞的な発想によって「主-客」の意識を際立たせ、対象を見すえて分析するような視点](p.69)
(7)[西洋流の数量概念、つまり単数・複数や、英語で言えば one of~、a part of~ などの概念](p.70)
(8)[比較級・最上級の用法](p.70)
(9)[「迷惑の受身」と呼ばれるものしか使われてこなかったところが変化し、やがて、あらゆる場面に受身が用いられる](p.70)
(10)[二者択一をも含む列挙や枚挙](p.71)
(11)[句読点が整備され、接続詞も多用](p.72)
(12)[「条件」や「仮定」](p.73)
(13)[進行形や after~ や before~、さらには as soon as などの表現を反映](p.74)
(14)[入り組んだ論理を表現するための西洋的なイディオム](p.74)
(15)[主観的表現の「感じる」](p.75)
(16)[「見出す」(find)、「与える」(give)、「存する」(be)、「有する」(have)、「欲する」(want)などの、ややゴツゴツした動詞](p.75)
加賀野井は事例を丁寧にあげていますが、ここではどんなところに特徴が見いだされるのかがわかれば十分です。英語の用法を日本語に適用させていたことがわかるだろうと思います。ただ、上記の中でも大切な動詞構文と名詞構文の違いについて、解説があったほうがよさそうです。加賀野井の説明を見ておきましょう。
▼これまで「なんだか春めいてきたなあ」という動詞を中心にした癒合的な表現をしていた日本語は、Spring has come のような西洋的思考法の影響で、「(うららかな)春が来た」というぐあいに名詞構文を多用するようになり、対象化された「春」には「うららかな」などの形容詞が付加されるようになってくるのである。 p.69 『日本語は進化する』
「癒合(ユゴウ)」というのは、傷口がふさがることのようですから、動詞を中心にあれこれの言葉がくっついているような表現ということでしょう。この表現の場合、何を対象にしているのかが明示されないままになりがちです。いわゆる主語が不明確になります。
一方、名詞構文の場合、対象となるものを明確にした上で、それがどうしたのかを記述するということです。したがって、この構文の場合、主語が明示されるか、明示されなくても、明確化されていることが前提になります。
夏目漱石の文章が英文の影響を受けていることは、加賀野井の確認で十分でしょう。漱石によって開発された日本語の文章が、近代的な散文の形成の方向と一致していたことは、現在のわれわれが感じ取れることです。
この「感じ」をもう少し詰めていくと、日本語の散文の形成が見えてくるでしょう。それが翻訳と関連していることは間違いありません。加賀野井は『吾輩は猫である』の文を確認した章に「翻訳が日本語を変えた」という題をつけています。まさにその通りでしょう。
4 日本語散文の中核的な規範
翻訳が日本語を変えたことは間違いありません。1976年に第二版が出された『日本語の歴史6』では、日本語の変容をもっと大きな視点からとらえています。加賀野井のチェックした点が大きな流れの中で確認されていると言ってよいでしょう。
翻訳が日本語にまで影響したのは、[幕府の教育機関であった蕃書調所、開成所の教育]によるところが大きかったようです。これらの教室では、翻訳は直訳文でなされていました。
▼直訳文は、当時の最高学府の教室という公の場で通用することによって、訳文の体として公認され、そこに学んだものを通して、末広がりに各地の学校の教室訳としてひろがっていき、そこで日本語の言い回しとして再確認されるというプロセスをへながら、日本人の広い層に及んでいったものであろう p.184 『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)
直訳文の形式による翻訳文が日本語に影響して行ったのです。ただ、影響には濃淡がありました。[「…するところの」のような言い回しは、それが欧文の影響だと誰にも分かるという意味で、浅くてなじみがたい影響にすぎない](p.184)ということです。
これに対して、受動表現の影響は[もっと日本語の深部に及んでいる](p.185)とみなされます。
▼在来の日本語の受動表現は、能動表現の裏返しというよりは、
・少年時代に父に死なれ…
のように、受動者の被害を表す言い方であり、したがって被害の感覚と無関係な無情物を主語とする受動表現は、在来の日本語では可能でなかった。だから、
・この本は若い人々によく読まれている。
のような受動表現は、いまでこそ普通の日本語になってすっかりなじんでいるけれども、じつは欧文の受動表現の影響として生まれ、ついにうまく育ちおおせたものにほかならないのである。 p.185 『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)
すでにあった受動表現が[能動表現の<論理的裏>として、能動表現と対になるような関係に把握されはじめた](pp..185-186)のです。そうなると[新しい受動表現は、在来の形式の内容的変貌であるという意味で、新奇でなじまぬ形式の誕生にくらべて、影響としての比重が大きいということ](p.186)になります。
ただ、このように影響が確認できるものよりも、[在来の日本語の形式・用法を変えることなく及んでくる影響]のほうが、影響を確認することは困難であるけれども、[新しい受動表現にもまして、さらに大きいスケールのもの](p.187)かもしれません。
それは、[たとえばこんにちの日本語の文章は、在来の文章に比べて主語を明示しようとする傾向を強めている]ことです。[それはたんに文の主語を明示する度合いがますということにとどまらず、日本語の文章が論理的色彩をより濃く帯びるという大きな傾向の一つなのではあるまいか](p.187)ということになります。
大きな流れを見ていくと、[新しい受動表現といい、主語の明示といい、欧文構造が日本語に与えた影響は、主としてより論理的な表現の方法であった](pp..187-188)ということになりそうです。
つまり[論理的な発想こそ、欧文構造が日本語に与えた最大の影響に擬すべきものに違いない](p.187)ということになります。これは日本語の散文開発の目指すところの反映かもしれません。論理的な記述が出来る日本語の散文を作りたかったということです。
もう一つ、大きなものがありました。それが言文一致です。こちらは[論理的であるとかないとかという以上の、あまりにも大きなもの](p.188)でした。
▼言文一致は、もちろん日本語自体の側からの切実な欲求によってみのったものではあるけれども、おそらく日本語がヨーロッパからうけた影響の最大の恩恵というべきものと思われる。 p.188 『日本語の歴史6』(平凡社ライブラリー)
言文一致については、「‘人工日本語’の功罪について」で桑原武夫と対談した司馬遼太郎が問うていたことでした。[ソルボンヌ大学の教授の文章とド・ゴールの演説と、ほぼ同じフランス語だろうという感じ]がすると司馬が言います(p.228)。
桑原は[しゃべったのがそのまま模範文になるというのは偉い人、エリートだけですよ。それに彼らは必ず原稿を用意してきて、それを読むのです]と答えていました(p.228 『日本人を考える』)。
演説の文章や、しゃべったものが模範文になりうる言文一致の文体というものが、求められていたということです。その反映として言文一致の文章スタイルが開発されて来たとみるべきでしょう。
内容が論理的で、簡潔・的確な内容であることに加え、言文が一致している形式であることが、言葉の「論理性・合理性・的確性・効率性」の面からも求められるということになります。
形式的には言文一致であること、内容的には論理的であることが、日本語の散文における中核的な規範であると言ってよいでしょう。