1 丸谷才一の誤解
いま日本語の文法の原稿をまとめています。文法や文章に関連した文章を読んで、あれこれ思うところがありました。今回は、そのうち印象深かったことについて書いてみます。
丸谷才一の『文書読本』は、よい本だと思います。その冒頭にある「小説家と日本語」という章は、興味深い内容になっています。昭和9年に書かれた谷崎潤一郎の『文章読本』以降、文章読本の類を小説家が書いてきたということを指摘して、小説家が現代日本文を創造した中核的な存在だったとの考えを示しています。また、これらの文章読本の中では、谷崎のものが傑作であると評価しています。その通りだと思います。
丸谷才一は、谷崎の『文章読本』の中にある「文法」という用語について、驚 くべきことを書いています。谷崎の言う「文法」とは日本語の文法のことではなくて、英文法のことだというのです。これには賛成できません。
谷崎の『文章読本』第二章「文章の上達法」を読めば「直ちに納得がゆくだろう」と丸谷は書いています。しかし、どうも納得がゆきません。ずいぶん強引な読み方だと思います。谷崎の書いているところを読めば、「日本語の文法」が役に立たないという話であることがわかります。英文法について語っているわけではありません。
日本語の文法は、「その大部分が西洋の模倣でありまして」と書いていますから、日本語の文法が、不十分なものであるということです。谷崎の言っているのは、本来、文法というのは文章を書くときに役立たなくてはなら ないものなのに、現在の日本語の文法は役に立たない、ということだろうと思います。
2 谷崎の基準
谷崎潤一郎の文章は、いま読んでも非常によくわかります。谷崎の『文章読本』を読めば明らかです。丸谷才一は、先の「小説家と日本語」の章で、重要な証言を記録しています。ドナルド・キーンに、日本の現代作家の中で誰が読みやすいのかを聞いたところ、言下に谷崎と答えたというのです。
その理由となるヒントも、書かれています。谷崎は、若いころから欧文脈の文章を綴っていて、その後、谷崎の文体が変わったあとも、依然として欧文脈の文章を書いたというのです。
「以前よりは格段に洗練された」「飛躍的な上達とも言ふべきものであって、大本のところにあるものは相変わらず欧文めいた構造なのである」と指摘しています。大切な指摘であると思います。
谷崎には、明確な文法的な基準があったのだろうと思います。昭和33年11月に書かれた「気になること」の中で、おかしな文章の指摘をしています。たとえば大江健三郎の小説「他人の足」から2つの例文を出して、これはおかしいと書いています。
「戦争は、フツトボオルをできる青年たちの仕事だ。」と「便器にまたがつたまま、紅潮した顔をむりに振りかえつて学生がいつた。」について、「戦争は、フツトボオルが」であり、「紅潮した顔で」ないし「紅潮した顔をむりに振りむけて」であるというのです。
そのとおりでしょう。ここで谷崎は、きわめて強い調子で言います。「私が国語の教師であつたらこの二つを誤りであるとするに躊躇しない。私にはかう云ふのは何としても我慢がならない」 「この二つの例のやうな日本語なんてあるものではない」と書いています。
3 文章のルール
谷崎にとって、これだけは守らなくてはいけないという文章のルールがあるのでしょう。それは文法といってもよいと思います。丸谷は、欧文脈と書いていますが、文章の基本となるルールにそっているということでしょう。
英語ならS+Vという基本構造があります。主語に続いて動詞が続く語順は、英語では当然のものですが、日本語では、こうした語順の決まりはありません。英語は独立語と呼ばれる言語です。語順によって言葉の意味を決めていく言語ですから、語順によって、基本構造が決まります。
日本語の場合、膠着語と呼ばれる言語です。語句を糊づけしていく言語ですから、糊づけするものが大切です。日本語の場合、その糊に当たるものが助詞になります。基本と なる助詞の接続の仕方が、語句の意味を決めていきます。
基本的な助詞の使い方がおかしな文章を例に出して、これは日本語ではない、と谷崎が言うのは、まったく当然のことです。
ビジネス文でも同じことです。たとえば繰り返し読まれるマニュアルの場合、助詞の使い方がおかしなところは、クレームになりやすい箇所です。間違った助詞を接続したために、誤解を生みやすくなります。
日本語にも基本的な構造があります。それを助詞が裏づけています。これは欧文脈とは違います。日本語に備わっているルールです。
何となくおかしい文だなあ、と思ったら、それを分析して修正できる言葉のルールが必要だろうと思います。日本語の文法が、そのとき役に立たない、と谷崎は言った のでしょう。まだまだ日本語の文法がダメだということでもあります。