■日本語の読み書きに文法は役立つか:文法教育の効果と限界

▼学校文法は読み書きに使えない

大野晋は、学校文法の基礎を作った橋本進吉の弟子に当たります。橋本進吉の大きな貢献は、文節という考えを提示したことにあります。大野晋はそれをこんな風に説明します。

例えば、「友達と、一緒に、神田へ、本を、買いに、行きました」を「友達、と一緒に、神田へ本、を買いに」とは言わないということは、橋本先生のお陰ではっきりした (中略)どこの膠着語でも、おそらくモンゴル語でもトルコ語でも通用するはずなんです。そういう意味で、文法的には大変優れた着想なんですよ。 『日本・日本語・日本人』

しかし、せっかくの着想ですが、「橋本先生の文法学を習っても、日本語が上手になることに直接には役に立たないんです」。「日本語と英語の文法上の違いとか、日本語を読むときに、どこに気をつけなくてはいけないかというようなことは出てこないわけです」。

日本語の場合、単語に助詞をつけて、糊づけしていくことで文を作っていきます。構造が見えにくいのです。構造を見出すために、文法があってほしいのですが、橋本文法つまり学校文法には、日本語の構造についての説明がないということです。

「自分が普段無意識に使っていた言葉が道理にかなって、正しいものかどうかを見分けることを具体的に知るという、そうした言葉へのアプローチが必要だと思うんですよ」…と大野晋は言います。

 

▼文法教育が効果をあげた例

大野晋が主張するのは、正しいかどうかを自分で検証できる日本語の文法が必要だということでしょう。今後、日本語の文法に求められる役割が示唆されています。それでは、正しいかどうかわかる文法が提示されたなら、文法教育は効果をあげるのでしょうか。

断定はできませんが、効果をあげるのではないかと推定することはできます。すでに日本の場合、大正時代の文法教育によって成果をあげた経験があります。ただし、文語文法のケースです。

明治38年に文部省から「文法上許容スベキ事項」というのが出ている。それは、たとえば、「…せさす」「…せらる」を「…さす」「…さる」としても差し支えないというようなものである。これは、その当時の文語文には、このような誤りが多かったので、それを習慣として許容しようとしたのであった。ところが、私などが中学校教育を受けた大正時代のころには、正しく「…せさす」「…せらる」とするのが普通になっていて、折角の「文法上許容スベキ事項」の大部分は、ほとんど死文になってしまっていた。これは、文語文法の知識が一般に広がったためといえるのではないかと思う。 岩淵悦太郎『日本語を考える』

ここで大切なことは、こちらが正しいと明示したからこそ、効果があったということです。大野晋が言う通り、「正しいものかどうかを見分けることを具体的に知る」文法であるならば、文法教育は効果があると思われます。

 

▼規範文法が必要

いまの文法書は、専門家向けの詳しい記述がある一方、一番基礎的なところの説明が、簡潔・的確に示されていません。少し前に、「に」と「へ」の違いについて書いたことがありました。やっとわかったという声がありました。あれあれ…ですね。

岩淵の先の本にも、両者の違いについて、≪「へ」が方向を表し、「に」が場所を表す≫ とあります。しかし、これだけではよくわかりません。「へ」は自分を起点にして方向を表すということです。あちらから、自分の方に来るときには、「へ」を使いません。

もちろん岩淵は重々わかっています。だからこそ、≪童謡の「青い眼をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド日本の港へついた時」という「へ」は、本来なら「に」であるべきであろう≫…と事例をあげています。

こうしたちょっとした説明不足が、正しいかどうかの見分けがつかない原因になっています。≪現実には、それほどはっきり使い分けられてはいないようである≫と岩淵は書いています。誤用であると指摘することに、なんとなく遠慮があるように見えます。

日本語の文法書に求められるのは、正しさを示す規範を記述することであると思います。しかし、あるがままの日本語を尊重する傾向が強すぎます。いまの文法学者で、規範文法をやる人は、皆無といってもよいのではないかと思います。

どうも方向が違う気がします。規範を示す必要があるのに、それを避けているように見えます。英文法は規範文法ができて、基礎が固まりました。私が「日本語のバイエル」で日本語の規範文法を構築しようとしているのも、以上の理由からです。

 

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