1 組織が成立してこそ業務が成立する
業務マニュアルのお話をしていると、知らないうちに、業務をどう捉えるのかという話になることがあります。お互いの業務についての考え方、捉えかたを確認しあうことになります。業務という概念が、かならずしも明確になっていないとも言えそうです。
一般に業務とは、「組織で継続して行う仕事」といった概念でしょう。組織で行うこと、継続して行うことという条件がありそうです。業務という概念の成立は、思ったよりも新しいもののようです。「組織」自体が、そんなに古い概念ではありません。
社会学者であったマックス・ウェーバー(1864年生―1920年没)の最晩年の著作『社会学の根本概念』でも、組織の論理が出てきていません。「ウェーバーは、社会や集団をすべて個人の行為に分解してしまう」と清水幾太郎が解説で指摘しています。
組織の行為と個人の行為の総和では、概念が別になるはずなのに、清水幾太郎の言葉で言うなら、「彼(ウェーバー)にとっては、個人の行為だけが理解可能なリアリティである」ということになります。
ウェーバーの次の世代にあたるシュンペーターの『経済発展の理論』(1912年)でも、「企業家(企業者)」という個人の機能に焦点をあて、組織を理論化していません。第1次大戦前には、業務を成立させる前提である組織が未発達だったとみられます。
2 業務の成立には多様性が必要
第二次大戦後であっても、すぐに組織という概念が明確になったわけではなさそうです。「労働の分業」から「知識の分業」への変化を指摘して、現場情報を重視したハイエクでも、組織という概念が不明確です。そのため業務の概念が明確になりそうにありません。
青木昌彦は『移りゆくこの十年 動かぬ視点』で指摘しています。「ハイエクにとって、企業は企業家個人に過ぎないのであって、組織としての企業の理論がないのである」。どうやら、第二次大戦後の状況を基にして、業務が明確になってきたようです。
業務の概念を明確化するのに大きな影響力があったのは、ドラッカーだろうと思います。1954年出版の『現代の経営』で、個人と組織の関係について、「公共の利益はつねに個人の美徳の上に実現されなければならない」という価値観を提示しています。
これはマンデヴィルの「私人の悪徳が公益となる」という合成の誤謬を否定するものです。合成の誤謬とは、「各人の行動が誤ったものでも、皆が行うと社会的に善良な行動になること」、「善行であっても、皆が行うと社会的に不利益になること」を意味します。
「個人にとって貯蓄はよいことであっても、全員が貯蓄を大幅に増やすと、消費が減り経済は悪化する」という例が良くあげられます。しかし、個人の悪徳が公共の利益になるかもしれないと考えることは、倫理観の欠如につながる、とドラッカーは警告するのです。
合成の誤謬を否定する論理を、ドラッカーは明確に書いていません。この点、こうことでしょう。自由な社会であるならば、多様性が認められ、個人が同じ行動をとらないので、合成の誤謬の前提条件が成立しない…と。
逆に言うと、継続する組織を成立させ、業務を成立させるには、多様性が必要であるということだろうと思います。
3 私的な強みは公益となる
それでは、業務というものは、どういう概念であるのでしょうか。1954年の『現代の経営』でドラッカーは、「公共の利益が企業の利益となるようマネジメントせよ」という考えが、「新しい思想」「未来…の希望」と書いています。
その後、この考えが広まり、ドラッカーも1973年刊行の『マネジメント』で、組織の基盤となる原理を「私的な強みは公益となる」と書いています。多様性のある人たちの集団において、それぞれの強み・美点を生かすことが、公益になると考えています。
各人の強いところを組み合わせたら、個人の行動を総和したものよりも、大きな成果が出せるということです。個人ではできないすばらしいことが、組織でなら実現できるということになります。こうした組織で継続して行われるのが、業務であるといえます。
業務とは、多様性のある個人の私的な強みを生かすことを前提として、成立することになります。業務マニュアルを作るときに、多様性を前提とせずに、標準化の名のもとに、均一化をさせようとしても、無理が出てきます。
肉体労働(manual work)を知識労働と対比したのは、ドラッカーでした。業務というのは、知識労働であるのが前提だともいえそうです。業務マニュアルの話をするときに、どうしても業務の概念を確認したくなるのは、以上の事情があるためでしょう。