1 スピード感の重視
清水幾太郎に、『本はどう読むか』という本があります。本の読み方、メモのとり方について、たくさんのヒントを与えてくれます。『論文の書き方』とともに、こちらもお薦めの本です。あまり知られていないので、ご紹介したいと思います。
6章からなるこの本の中でも、3章の「忘れない工夫」と4章の「本とどうつきあうか」が、中核をなします。本を読み、本を書いてきた人の実体験からの考えと具体的な方法を知ることができます。
書く側の視点からの指摘があります。<大部分の人間は、書物や論文を書く場合、相当のスピードで書いている>のです。スピード感が大切です。<文章を貫く一筋の連続性>を確保するためには、<書くときは一気に書く>ことになります。
<観念の急流のようなものが動き始めて、それを文字に移す手の動きが間に合わないような、そういう気分の中で、私自身、長い間、文章を書いて暮らして来た>…と自分の経験を語っています。
<読書というのは、この「観念の急流」に乗ることである。乗るのには、相当のスピードで読んで行かねばならない>と指摘しています。そのため、読書会でやるような「遅読主義」を<全く愚劣な方法>として否定します。
<読者の側に「自然の速度」がなければならない>。なぜなら、<著述家が読者に伝えたいのは、観念の全体的構造であるし、私たちが本を読むのも、この観念の全体的構造を掴みたいからである>。これが清水が考える読書法の基本になっています。
2 大切な本の記録法
ここで若干の疑問が生じるかもしれません。上田惇生は、読書会が理解を深めるのに一番よい、と言っていました。しかし、清水は愚劣だと言います。<多くの書物は、一度は一気に読まねばいけない>…と清水は書いています。最初に読むときの話なのです。
<一気に読むと、大小の疑問は残るであろうが、その反面、あの全体的構造が見えて来る。細部はわからなくても、構造の輪郭がわかってくる>。そうしたら、もう一度注意深く読み直したり、綿密に調べたらよいと言っています。
一度読んで、これはと思う本ならば、ていねいに読む必要があります。上田惇生のように、本物をきちんと読む話は、[■ある方法…本の読み方:独学の基礎]に書きました。清水も、<ノート・ブックでも、ルーズリーフでも、カードでも、大いに使ったらよい>と書いています。
では、大切な本の記録を、どのように行ったらよいのでしょうか。本を読んでいる間、<自分の心に刻み込まれていくように感じられたのに、その内容を思い出そうとすると、それが思い出せない>、これはまずいと、清水はノートを利用しはじめました。
ところが、あるとき、<ノートは出来上がったけれども、肝心の書物の内容は私の心に残っていない、それに気づいた>そうです。書物に忠実な態度で<作られたノートというものは、私の経験では、思ったほど役に立たないものである>。
そこでルーズリーフを使い、カードを使ったのに、やはり失敗した…と体験談が語られます。カードを作っても、<私の心に残らない。残らないだけでなく、そもそも、思考の連続性というものが成り立たない>…のです。
3 自己中心の主観主義で作るノート
<私は再びノート・ブックへ帰ってきた。それから今日まで、私はノートを一度も手放したことがない>ということになりました。当然、最初のノートの作りかたとは違った方法をとることになりました。
最初のノート作りでは、書物に忠実な客観的なノートを作ろうとしていました。ところが、それではダメでした。今度は、自分の心に残るテーマを見つけて、そのテーマを中心に、<自己中心の主観主義でノートを作る道へ入り込んで行く>…ことになりました。
自分のそのときの関心が反映したノートになりますから、<関心が別のモノに変化してくると、全く役に立たなくなる>。そのとき、<ノートは新しく作り直さねばならない>のです。本に引いた傍線も書き込みも、何年かたてば、邪魔になります。
本の読み始めに客観的だった読み方も、読み進んでいくうちに、次第に自分なりの考えが芽生えてきて、変容していきます。<読んでいるうち、次第に自分というものが強く出て来る>というのは、私たちも感じることでしょう。主観的にならざるを得ません。
こうした<書物中心から自己中心へという発展>は、当然のことであり、<人間が本に読まれる段階から人間が本を読む段階への発展である>…と捉えることができる、と清水は書いています。自分の体験から、実際的な方法が語られた貴重な本だと思います。