1 妥当でない例文
北原保雄『日本語文法の焦点』を参考に、使える日本語文法はどうあるべきか、考えています。この本の基本的立場は、主語・主体の概念は不要、主題と主格があれば十分だというものです。主格を「主観的主格」と「客観的主格」とに分けているのが特徴的です。
「私がリンゴが好きだ」を例にして、北原は「好きだ」には、<(リンゴが)好かれる>と<(私が)好きに思う>という二つの側面があると言います。<「リンゴ」には好かれるという属性が認められる>とのこと。「私」も「リンゴ」も主格だということです。
ともに助詞「が」が接続するため主格だと言いたいのかもしれません。しかし、「私がリンゴが好きだ」という例文自体がダメな文です。北原が他にあげる「象が体が大きい/象が力が強い/象が鼻が長い」なら文になっています。違いはどこにあるのでしょうか。
2 主述関係が中核
「象が体が大きい/象が力が強い/象が鼻が長い」の「象が」に続く部分をみると、<体が大きい/力が強い/鼻が長い>と主述関係が成立しています。主題となる「象」には、「は/が」ともに接続可能です。一方、「リンゴが好きだ」に主述関係は成立しません。
「私は好きだ」が主述関係となり、その対象物が「リンゴ」です。「が」を重ねると不明確になりますので、「私はリンゴが好きだ」となります。「私が」に変える理由はありません。この文の「私は」は主体であって、主題と見るのは無理でしょう。
主述関係を中核にした本体部分に対し、その前に置かれて本体全体に影響を与える機能を持つ要素があります。<いつ・どこで・どんな場合>というTPOがそれです。主題も同じ機能を果たす要素です。機能が文中の意味を決めることになります。
「象が体が大きい」の中の「象が」は、助詞「が」の接続ですが、機能から見れば主題です。文頭におかれて文全体のテーマ設定の機能を果たしています。一方、「私はリンゴが好きだ」の場合、助詞「は」接続ではありますが、「私は」は主題でなく主体でしょう。
3 意味の構造を理解する条件
「は」接続は主題、「が」接続は主格との主張は北原に限らず、しばしば見られます。語の役割を形式的に決められる方がよいとの考えがありそうです。内容の実質を含めて考えることが学問の客観性を低下させるという気持ちがあるのかもしれません。
<繰り返し強調しているように、文法は、あくまでも表現そのものに即して考えられなければならない>と書いています。表現形式のみで、内容の実質を考えることを排除したい意図が見えます。これは無理なことです。法治主義と法の支配の関係を思い出します。
『創造学のすすめ』の畑村洋太郎は、創造とは、<要素を組み合わせて、ある機能を果たす構造を作り上げること>であると言っています。文を作ることも同じだろうと思います。構造の形式から考えすぎると、機能が見えなくなります。
小松英雄は『徒然草』の冒頭にある「日暮らし」について、一語化する過程にあったが一体化が強固でなかったと考証しました。「表現そのもの」を見ただけでは、意味の構造が見えなかったためです。要素と構造と機能をそなえた使える文法の構築が待たれます。