■外国語との比較から日本語を論じるとき:その前提条件

 

1 フランス語から見た日本語

外国語と日本語を比較すると、日本語の特徴が浮かび上がることがあるかもしれません。そう思って、「フランス語から見た日本語学」という副題を持つ『日本語の森を歩いて』を眺めてみました。著者は、フランス・ドルヌ+小林康夫、ご夫婦のようです。

こんな例文があります。「医者は、患者(病気)を治す人です」。<一般的には、ぎりぎり使えなくもないが、しかし何か不自然な感じが残る>かもしれません。「あの気功師は手を当てるだけでどんな病気でも治す」なら、<問題なく受け入れられる>でしょう。

両者の差は、<単純に文法的な差ではありません。意味論的な差です。しかも単に意味論というより、人間学的な、文化論的な差>とのこと。意味論的とは、医者は<「診察・診療」はするが、「治す」ことまでは保証しない>点を言うようです。困りますね。

 

2 日本語のレベルに問題あり

例文をもとに、医者は病気を治さないと思われている…と言いたいのでしょうか。「どんな病気でも治す」と言うくらいナンセンスな話です。「あの医者は、ついに難病を治した」なら、問題なく受け入れられるでしょう。<意味論的な差>ではありません。

「医者は、患者(病気)を治す人です」が何となくおかしく感じられるのは、「医者」という語が個人というより、職業に従事する人達全体を表すと感じられるからでしょう。「あの医者は」でなく、「医者は…どんな人です」と言われると、どこか不自然です。

日本語は、主述の対応関係を中核に構成されています。したがって、この対応関係に違和感がある場合、文全体が不自然に感じられるのは、当たり前のことです。意味論的な問題ではなくて、主述の対応関係に違和感がある…というだけのことでしょう。

「太郎は捻挫が治っている」を問題のない文とするなど、この本には日本語の扱い方に不安を感じさせるところがあります。こうした例文から、<近代医学が要求する厳密さの観点からすると、「医者が、病気を治す」とは言いにくい>…と言うのは、無理でしょう。

 

3 日本語を論じる前提条件

それでは、「医者は、患者(病気)を治す人です」と「太郎は捻挫が治っている」をどう表現したらよいのでしょうか。明確な言い方にするために、まず主述関係から考える必要があります。主体と述部の対応する形式の文にしてみることが必要です。

「医者は、患者(病気)を治す人です」の場合、「医者は…人です」という言い方より「医者は…仕事にしています」の方が自然でしょう。「医者は、患者(病気)を治すことを仕事にしています」。あるいは「医者の仕事は、病気を治すことです」となります。

「太郎は捻挫が治っている」の場合、「治っている」のは「捻挫」でしょう。問題は、「治っている」という表現が、どんな様子をいうのか曖昧な点です。<「治る」行為が完了した>意味だそうですから、「太郎の捻挫は治った」のでしょう。

あとがきに、<フランス語で簡単に言えることが日本語ではなかなか言えないという問題にわれわれは絶えず直面していました>…とあります。日本語の例文がどこかおかしくて、この本は日本語を論じる前提条件を満たしていない、と感じました。

 

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