1 訓読みのアプローチ
日本語で漢字を音読みと訓読みの二重読みができるのは、漢字が、英語やフランス語などの表音文字でなく、表意文字だからでしょう。原則として、外来語としての漢字の発音が音読みになり、漢字に日本語の語彙をあてた読みが訓読みになったと言えそうです。
小学校の教科書にも、発音して意味のわかるものが訓読みだと記述されています。「山」を「さん」と読んだら意味はわかりませんが、「やま」と読んだらイメージがつかめます。一見、当たり前のことに見えますが、しかし訓読みは特異な存在のようです。
<韓国が吏読(イドウ)という訓読みに近いやり方をいったん試みたが成功しなかった。同じようなことは、ベトナムが字喃(チュノム)という言語表記法を工夫し、開発するが、もちろん成功しない>(『国民の歴史』)…と西尾幹二は指摘しています。
渡部昇一は『アングロサクソンと日本人』で「民族心理学的」という言い方で、日本語に入った時期・経路で感じ方が変わると語ります。梅の「うめ」は「ばい」と語源的に同じだそうです。しかし私たちは「うめ」をやまと言葉だと感じて、訓読みだとしています。
2 暗黙知の獲得
音読み、訓読みも厳格なルールでなく、感じ方に基づいているようです。表記法を工夫しても、直感的にわからないと定着しないのでしょう。こうした習得の仕方は、自転車の乗り方を覚えるときになされる、いわゆる暗黙知の獲得の仕方に似ている気がします。
その意味で助詞の使い方の習得は、よりいっそう暗黙知の獲得に近いものでしょう。私たちは、すでに5歳くらいのときに助詞の使い方を身につけています。「は」と「が」の使い分けを苦労して覚える必要はありません。理屈で覚えるのは難しいはずです。
助詞の場合、主要なものは一音からなりますので、音による把握の度合いが大きくなります。ドレミの音階と同じく、音の違いに何となく段階があります。ドレミは音階の高低の違いですが、助詞の場合、もう少し複雑な要素が絡んでいるようです。
3 ニュアンスと練習
主要な助詞である「は・が」を見るだけでも、音の違いが感じられます。接続する語句の示し方にニュアンスの違いがでるのでしょう。「鈴木さん*よいと思います」という文の「*」に、助詞「は」「が」を入れてみると違いが感じ取れると思います。
「鈴木さんはよい」なら、「他と比べるまでもなくよい」という絶対的な主張のニュアンスがあります。「鈴木さんが」なら選択のニュアンスが入るでしょう。「は」の絶対的な主張に対し、「が」は「他と比べて」というニュアンスのある相対的な主張です。
こうした音の感覚的な違いに加えて、具体的な使い方の場面を繰り返し見るうちに、直感的に使用法がわかってしまうのでしょう。逆に言うと、詳細な場合分けをして使用法を習得しているわけではありませんので、詳細な分析だけでは不十分な気がします。
私たちは、文章を読み書きするとき、大ざっぱなニュアンスを知り、あとは練習によって感覚を磨いていくほうが、効果的でしょう。現行文法のアプローチが詳細な分析に傾きがちで、そのためにかえって文法が読み書きに使えなくなっているように思います。
[前回のもの⇒【その1】]