■読み方の工夫:古典的名著に挑戦するときの方法

1 20頁を読むのが第一歩

哲学でも小説でも、古典的な名著は難解だったり長かったりします。こういうものに次々挑戦するのも時間があるならよいことかもしれません。しかしビジネス人が古典に取り組むのは簡単なことではありません。すこし読み方の工夫をすべきだと思います。

たとえば源氏の場合、たまたま若いときに現代語訳を読んでいたため、解説書のよしあしを判断するときに少し有利でした。現代語訳であっても読んでおけば、よい参考書や解説書を見つけるのにも役立ちそうです。その意味では、読むことが第一歩になります。

ただ、全部読むのは負担が大きすぎます。ひとまずよさそうな本があったら、最初のほうを少しだけ読みます。20頁くらいでよいと思います。少しでも読めば、何となく雰囲気が分かります。気になる古典的名著を手にとって、20頁読むこと…がスタートです。

2 相性のよい本を探す方法

ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』を読み出したとき、20ページをクリアしたあとその先が読みたくなって、少しずつ500頁超の本を読みました。2ヶ月以上かかったと思います。1回に20分くらいだったでしょうか、よい気分転換になりました。

この例のように、そのまま最後まで到達してしまうこともありますが、たいてい挫折します。20頁読んで興味がわかなかったら、それでサヨナラです。ひとまず対象を変えたほうがよさそうです。判断がつかなかったら、その先をもう少し読めばよいでしょう。

この方法で世界の古典的名著をチェックすると、サヨナラする本にたくさん出会えます。そのうち何か引っ掛かる本に出会います。100頁まで読んでサヨナラもあるかもしれませんが、一定以上の頁を読む気になった本は、たいてい自分にとって何かがある本です。

3 よい解説書によって読みを確認

古典的な本の場合、何かを感じ取ったとしても、十分な理解が伴っていないことが普通でしょう。それしかないと思います。誤読であっても読んで自分に何らかの反応が生まれるなら、それだけで意味があります。気になるなら、また読めばよいのです。

再読したり解説書を調べたり、興味の継続する本は自分の古典になるかもしれません。そこまで行かなくても、だらだらでもある程度読んで、何らかの理解を求めていくうちに、「ああそうか!」という特別な理解が生まれることがあります。これが貴重です。

源氏に関していえば、山口仲美の「夕顔」の巻の解釈がすばらしいと思いました。このとき源氏の入門書として大切に思っていた村山リウの『ときがたり源氏物語』をチェックしてみました。夕顔の巻の解説など、この本のすばらしさを再確認することになりました。

この夕顔の女は、頭の中将の奥さんに厳しく非難されて、三歳の女の子までいながら自分から身を引いた。男と女の関係にこりごりしていたはずなのに、ちょうど夕顔がツルをのばすように、だれかにすがらざるを得なかった。その背後には生活があるの。女ひとりでは食べていけないから、男に頼らざるを得ないという…。物質生活は小説の表にはちらっとも出ていないけれど、もし自分が自立していけるのであれば、源氏の君に、<心あてにそれかとぞみる…> と呼びかけはしなかったろうと思いますね。

 4 興味の継続が生む新しい展開

古典とみなされる本のありがたさは解説書や入門書がいくつもあることです。ささやかな自分の読みをもとに関連した分野の解説を一部読んでみると、引き込まれるような説明が見つかるかもしれません。こうした経験によって読み方が変わってくるはずです。

原典に気になる記述があったら、少し先まで読んでいけば、何かが見えてくるかもしれません。あるいは何だかわからないまま、興味を持ち続けているうちに新しい展開が生まれることもよくあります。自分の古典を見つけることは鉱脈を見つけるようなものです。

時間の限られているビジネス人でも、古典的名著をチェックすることは割に合うことだろうと思います。だらだらであっても興味を継続させておくことによって、新たな世界が見えてくる可能性が十分にあります。古典の扉を開けてみるのも、悪くないと思います。

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