1 アナログ的な基礎作業
先日、ワープロソフトの日本語変換技術を担っていた方とお話してきました。キー入力を変換して文章にしていかなくてはなりませんので、何が使える指標なのかを意識して日本語を整理していました。人間が文章を書くのと、発想が違うのが面白いところです。
機械での日本語変換というのは、コンピューターがチェスや将棋の差し手を考えるのと似ているのでしょう。単語をすべて品詞登録して、品詞の作用がどんなものであるかの要件を登録しておき、それをベースに語句の連結関係が加わっていくようです。
その中で印象的だったのは、基礎の段階で単語を集めてそれを積み上げていくことが、ほとんどアナログ的な作業であることでした。厳格なルールがないので、情報をすべて自動的に集めるわけにはいかないようです。丁寧なお仕事に感銘を受けました。
2 キーボード入力とわれわれの劣化
日本語の文章がコンピューターに入力できるようになったことは、画期的なことでした。日本語をローマ字化したらタイプライターが使えるようになる、というお話もあったようですが、もはや日本語表記をローマ字にしようという話は聞かれなくなりました。
いまではキーボード入力が日本語を記述するときの標準的な方法になったと言えそうです。電子的処理が可能ですから、あえてプリントアウトする必要がありません。メールを印刷するのはよくよくのことでしょう。文書の圧倒的なペーパーレスがすすみました。
その結果、処理が早くなって仕事が効率化したのは確かだと思います。ただ、ときどきアナログ的な手法も入れないと、われわれ自身が劣化するリスクがありそうです。私も漢字が書けなくなることがあります。手を使うことをやめてしまうと、調子が出てきません。
3 文章を活字化する贅沢さ
便利なことはリスクと裏腹の関係があるのかもしれません。便利さを上手に利用するために、何らかの対策が必要だと思います。入力の効率化、ペーパーレスの利点は大いなる恩恵ですが、必要に応じて手書きを取り入れ、また印刷することが必要でしょう。
ワープロ専用機が登場して以降、手軽に自分の文章を活字にして見ることができるようになりました。手書きのものより活字化したもののほうが、客観的に読むことができます。自分の文章を手直しするのに、印刷して活字化したもので行うほうが有利です。
手軽に活字化が可能になったことの意義を、最初に指摘したのは立花隆かもしれません。講談社の冊子『本』に連載していた記事でのことでした。この連載が『知のソフトウェア』として本になっています。こうした視点があまり知られないのは残念です。
かつて自分の文章を活字にするために、労力もコストも膨大にかけていました。こんな贅沢が、今や簡単にできます。ときには活字化した自分の文章を音読し、印刷したものに修正を加えていく必要がありそうです。最近、自分に言い聞かせています。