1 翻訳で使われる用語に注意
ドラッカー作品の多くの翻訳を上田惇生が行ってきました。自然な日本語で読みやすく、そのおかげでドラッカーの理解が進んだように思います。日本語の文章としておかしくならないように、いらない接続詞は取ってしまう、とかつて上田本人から聞きました。
滑らかな日本語には、ときとして注意が必要です。ドラッカーはあまり用語の定義を厳格にしません。翻訳では使われる概念にふさわしい名前を与える工夫がなされています。しかしその語句によって、語られる内容のイメージが変わることがあります。
たとえばカルテのことで若干の問題が生じました。「情報化組織」に<情報型組織には、具体的な行動に翻訳できる明確で単純な共通の目標が必要>であり、それにあたるのがオーケストラでは楽譜、病院では<カルテが楽譜の役を果たし>ているとあります。
2 カルテと楽譜の役割の違い
業務マニュアルの再定義が必要だと言うときに、ドラッカーのこの「具体的な行動に翻訳できる明確で単純な共通の目標」という文言がキーフレーズになります。規格どおりの業務とは違った、付加価値をつける業務を行うときには「共通の目標」が必要です。
共通の目標に向かって、各部門の担当者が専門的な知識を前提に、自らの目標を達成していきます。こうした方向を与える文書が業務マニュアルだということです。その意味で楽譜は、オーケストラの業務マニュアルともいうべき存在だといえるでしょう。
ところが病院のカルテは診察や検査の記録を記述する機能を持った文書です。あるべき姿となる目標がないものは業務マニュアルではありません。「共通の目標」のない<カルテが楽譜の役を果た>すことはありえないことです。何かが違うということになります。
3 原文:[The diagnosis is their “score”]
こういうとき、原文に当たるしかありません。おかしいなあ…と感じるのはカルテの部分です。原文では、[The diagnosis is their “score”; it dictates specific action ] となっています。it 以下の訳は「とるべき行動を教える」という適切な訳です。
問題は、[The diagnosis is their “score”] の部分です。「diagnosis」は「診断」という意味でしょう。「診断が楽譜の役を果たし、とるべき行動を教える」となりそうです。診断をした記録をつけるのがカルテなので、診断がカルテに言い換えられたようです。
しかし、ここはまさに「診断」でなくてはなりません。患者が来院したとき、症状がどうなのかを検査し、その病気に対応した治療方針を立てます。これが診断です。担当のドクターがたてた治療の方針にそって、病院の各スタッフが行動することになります。
4 ときに必要となる原文の参照
ここまでの翻訳は『ドラッカー365の金言』(2005年刊)の上田惇生訳でした。その後に訳された『経営の真髄』下(2012年刊)にある「情報化組織」の訳文は、また少し違ってきています。言及したなかでは、「共通の目標」が「共通の目的」に変わりました。
[common objectives]ですから「共通の目標」が自然かもしれません。そのほうが目標管理 「Management by Objectives」 との整合性もあります。患者を救い、回復させるのが病院の「目的」でしょう。診断で示された治療方針が病院の「目標」になります。
業務を行っている組織に、業務マニュアルという文書が存在しないことはよくあります。それでも業務マニュアルがないとは言いきれません。大切なのは適切な「診断」を示す人がいて、共通の目標になることです。これが実質的な業務マニュアルといえます。
1980年代以降、業務マニュアルの概念が変化しました。「情報化組織」を含む『新しい現実』は1989年出版の著作です。再定義された業務マニュアルの概念を考えるとき、訳語がしっくり来ませんでした。違和感のある場合、原文に当たることが必要でしょう。
*文書としての「カルテ」の重要な機能について、
⇒ 「新しい形式を作り出すときのモデル」に少し書きました。