■小松英雄のロジックと切れ味:『日本語を動的にとらえる』から(1/2)

1 円滑な運用のための仕掛け

小松英雄は『日本語を動的にとらえる』で、日本語特有の体系運用の仕組みを明らかにしようとします。それは[他言語との比較のもとに日本語の特性を明らかにすることでは]ありません。日本語の円滑な運用のための[独自の仕掛]を推定しようとすることです。

そのとき[発話の目的が意志や情報の伝達であること]から[意味をないがしろにして言語の本質に迫ることはできない]のです。このとき文法が扱う対象は「文=センテンス」に限らず、叙述[一文よりも長い、連結されたひとまとまりのスピーチ]になります。

係り結びで使われる「ゾ」と「ナム」の違いについて、[文がその直後で断止することの表示がゾであり、叙述の大きな部分がその直後で断止することの表示がナムの機能である]と捉えます。文が終わる目印が「ゾ」、文章の区切りの目印が「ナム」になります。

 

2 機能語としての助詞

小松は、助詞が[それ自体としての意味を持たず、文法機能を担って運用される機能語]であるという考えを基礎にしています。助詞に違いがあるなら、機能が違うと考えるべきです。[ゾもナムも強意、強調と教え]るのでは、両者の機能の違いが示せません。

[ほんとうに大切なのは個々の係助詞の担っていた機能なのである]。この場合の機能とは[構文に関与すること]です。「ゾ・ナム・ヤ・カ・コソ」などの係助詞に共通する機能は[直後に叙述の明確な切れ目が来ることを予告できるようにすることであった]。

この共通機能に加え、「ゾ」と「ナム」には、切れる場所の相違という機能の差があります。さらに[事実の確認を機能としていた終助詞ソ・ゾは、係助詞として、直後の断止を予告するとともに、現代語の格助詞ガにほぼ相当する機能を持つことになった]のです。

一方、[疑問のヤ、カは、断止の予告とともに、疑問、質問の機能をそのまま引き継いでいる]。また[コソの基本機能は複数の選択肢からの択一であった]。現代においても、この機能は[とても便利に使えるので生き残った]のだと考えられます。

 

3 係り結びが不要となった理由

小松の係り結びの説明は、機能を中核に据えていて明確です。係り結びが不要になっていった理由も、機能の点から説明されています。すなわち断止のための[わずらわしい手順を踏まないですむように、接続詞を増やしていった]ためだということになります。

ローソク、ランプ、白熱電球、そして、LEDランプと、夜をもっと明るく過ごしたいという、その時期、その時期の人たちの願望が結実し、さらに高い効率を求めて進歩してきたのと同じように、日本語の場合にも、片言から短文に、接続助詞に、接続詞にと、長いディスコースを効率的に叙述したいという願望が次々と結実したのが現代日本語の構文である。(p.309)

こうした機能的な見方、[係り結びを含む諸事象を言語の運用効率という観点から説明した論考が、筆者の知る限り見当たらないので、新しい視点を提示した]と小松は言い、[自分の提示した結論で問題が氷解したはずだとは信じていない]と言い添えます。

 

4 小松のロジックに対する疑問

小松の説明で終りではないのです。例えば、[一文よりも長い、連結されたひとまとまりのスピーチ]を「叙述=ディスコース」と呼び、「ナム」が来たら、センテンスの終わりでなくディスコースの終わりになると書いています。しかし、例外もありそうです。

今は昔、竹取の翁といふ者有りけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば讃岐造となむ言ひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いと美しうて居たり。

「竹取物語」の冒頭です。「名をば讃岐造となむ言ひける」と「ナム」のあと、まとまりの区切りがきます。続く文も「もと光る竹なむ一筋ありける」(根もとの光る竹が一本あった)と「ナム」のある文です。一文で区切られ、まとまりの区切りになっていません。

疑問点として、(1)機能のうち、「言語の運用効率という観点」を重視しすぎている点、(2)「事実の確認」「疑問、質問」「複数の選択肢からの択一」を機能としながら、「強意」が機能でない様な記述をしている点です。しかし何と刺激的な本なのでしょう。

*この項、続きます。⇒「再び小松英雄のロジックと切れ味」

 

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