1 就職活動用の自己アピール
就職活動を控えて、学生は自己アピールを何度も書き直しています。複雑な気分です。人には得意不得意があります。振り返ると意外な事実が明らかになってきます。その人の専門分野の評価が失速し、別分野の卓越性が明らかになることがしばしばあります。
[今世紀初頭、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864~1920年)は、資本主義をプロテスタントの倫理の落とし子とした。もちろんこの有名な説は、今日では信憑性を失っている。根拠がない]。ドラッカーが『ポスト資本主義社会』に書いた文章です。
『プロテスタンティズムと資本主義の精神』の価値を否定する羽入辰夫も、『マックス・ヴェーバーの哀しみ』で[現実政治における政治的判断能力はきわめて卓越したものであったと言わざるを得ない。これはほとんど生得的なもの]と評価しています。
2 本業あるいは副業の得意と不得意
ヴェーバーだけではありません。サルトルは哲学者として華やかに登場し、大きな存在と扱われていました。しかし、『ゴシップ的日本語論』で木田元が言います。[サルトルは、評論は一流、小説は二流、哲学は三流という感じを、僕は持っている]とのこと。
哲学者としてサルトルは、もはやあまり評価されません。サルトルよりもメルロ=ポンティのほうが大きな存在になりました。サルトルの哲学書は読まれそうにありませんが、メルロ=ポンティの『眼と精神』は今後も読まれるでしょう。しかし木田元は言います。
サルトルもメルロ=ポンティも政治時評をやっているんですが、アルジェリアの独立問題やインドシナ問題などを論じているのを、半世紀たってから振り返ってみると、サルトルの言ったことはだいたいあたっているけれども、メルロ=ポンティの予想は全部外れてる。
3 わからなさに堪える必要
こうした得意不得意のずれは、歴史的な人物ばかりではないはずです。現代人にも、この種の人はいます。それどころかほとんどの人が、自分の強みを正確に把握できずにいるはずです。自分で自分の強みなど、そんなに簡単にわかるものではありません。
おそらく自分の強みは成果で見るしかありません。その成果もあとになってこそ明確になるのが普通です。わからなくてはいけないのではなくて、わからなさに堪える必要があるように思います。安直に「私の強みは[…]です」などと言うべきではありません。
しかし担当者の「指導」により学生たちは、「私の強みは[…]です」と定型文書を書かされています。一部の学生が違和感を持つらしく、おかしくないですかと言ってきます。それも繰り返し書き直しをさせられるうちに、感受性がマヒしてくるようです。
企業側では、その種の作文など見ないはずですから、指導による不利はないのでしょう。しかし何度も書き直すうち、ほぼ例外なく文章が劣化してきます。こんなばかげた指導などしないという学校が増えることを願っています。憂鬱になる出来事です。