1 勉強して考えて作った漱石の小説
丸谷の『闊歩する漱石』が出てすぐに丸谷才一と井上ひさしが対談をしています(「夏目漱石と日本人」『現代』2000年9月号)。その冒頭に、井上は漱石を論じる丸谷に、漱石への[あたたかな思いと友情]を読み取って、丸谷の本のエッセンスを語ります。
[小説というのは、天才がポカンとつくり出すものではなくて、その社会の中から生まれ育っていくという事情がある][でも、当時の日本には、漱石が理想とするような小説を生んで育てる社会がなかった][そこで、漱石は勉強に勉強を重ね、考えに考えて、孤軍奮闘した]。
さらに文章もそうです。[「文学は言葉でつくるものだ」という当たり前のことが、漱石の時代には当たり前ではなかった][文学は何よりも「言葉によってつくられる」という大前提]がある。[特に初期の漱石は言葉で文学を作るために孤軍奮闘しています]。
[あの時代に、小説というものを書かねばならぬということは、漱石にとってはすごく大変だったろう]との思いをめぐらして、丸谷は[漱石をかわいそうだと考えた]。これが漱石への友情になっていると、井上は語っています。見事な一筆書きです。
2 イギリス留学で文学の最先端に触れる
別のところで司馬遼太郎が、近代の文章となる日本語を作ったのは、夏目漱石だと語っていました。なぜ漱石が特別な存在になりえたのか、丸谷は仮説を提示しています。漱石は1867年に生まれ、1893年にイギリス留学をしています。
[19世紀の方法では小説が書ききれなくなって、新しい小説の形が生まれようとしているまさにその真只中に、漱石はイギリス留学をして身を置いていた][ロンドンという当時の世界散文の中心地で、モダニズムという新しい考え方で小説が書かれつつあり、まさにその渦の中にいた]と井上がアウトラインを示します。丸谷は言います。
漱石は、ひとつには18世紀のイギリス小説をたくさん読んでいたせいで、それからもうひとつ、モダニズム小説が誕生するころのロンドンで暮らしていたせいで、世界最初のモダニズム作家の一人として、自分で手製でモダニズム小説をつくっていたという気がするんですよ。
いまから読んでも、漱石の小説は古くなっていません。文章も、われわれが現在書いている文章と同質のものです。イギリスの小説、英語の影響が大きかったのだろうと、改めて思います。イギリス留学の影響について、こんな風に考えたことはありませんでした。
3 小説の最初と最後
対談というのは、面白いものです。両者がかみ合ったところに、ああそうかという二人だからこそ生まれる発言がなされます。この対談でも、小説の最初と最後という極めて簡単な基準で、漱石の小説の偉大さを示しました。
[たいていの小説は、どんなに有名な出だしで書いてあっても、最後の文句は有名でなかったりする。最初も最後も有名なのは、『坊つちやん』ただ一つあるのみ!]と丸谷が言うのに対して、井上は[それと『吾輩は猫である』も]とつけ加えています。
漱石の小説や文章について語られながら、この話を意識しながら他の人の本を読んでいた気もします。文章のうまさ以上に、安定性や永続した文章の強さというものがあると感じました。文章の面から言えば、漱石、谷崎というのが主流なのかと思います。
丸谷の『闊歩する漱石』も読んだはずですが、その記憶よりも、この対談が記憶に残っています。この対談で丸谷の本のエッセンスを教えられました。対談時、丸谷は75歳直前、井上は65歳でした。現役の小説家どうしの軽やかな重要な対談でした。
丸谷の対談集は何冊か持っているのですが、探し方が悪いのか、この対談の掲載された本が見つかりませんでした。対談が掲載された月刊現代がまだ手元にありますので、そこ(pp..136-145)からエッセンスを引きました。
4 付記:丸谷才一の選んだ漱石の小説
丸谷才一は、漱石の小説の中でも、[『坊つちやん』『吾輩は猫である』『三四郎』、この三つを読んで面白がった]、一方[僕が一番つまらないと思っている『明暗』という最後の小説]と語っています。丸谷によると、漱石の中で読むべき小説はこの三つです。
『三四郎』は、失敗作と言えば確かに失敗作だと思うんですよ。『坊つちやん』『吾輩は猫である』が成功しているのに比べて、『三四郎』は、ちょっとまずいなあという気がする。でも、あれはごく普通の正統的な小説を書いていますよね。しかもあれだけ粋な感じで書いたというのはすごいことであって、失敗作にして、かつ名作だという感じがするんです。