■谷崎潤一郎『文章読本』:日本語の構造と日本語の文法をめぐって

1 谷崎『文章読本』の中核

谷崎潤一郎の『文章読本』は古典になりました。昭和9(1934)年に出版され、いまもこの分野の代表作です。かつて丸谷才一が、谷崎の「文法」と書いている箇所を「英文法」に入れ替えると意味がはっきりすると主張して話題になりました。もちろん間違いです。

実際に読めばわかることですが、一部を取り出して、そこだけを見たなら谷崎は不注意だったという印象を持つことになります。しかし丸谷が引用したところでも、「文法」と書いているのは英文法のことを意味していません。案外、この違いは大切な点です。

「英文法」説は、もともと中村真一郎が丸谷に話したのが元だったと、のちの『思考のレッスン』で丸谷は語っています。人を驚かして見せるのも必要なのかもしれません。残念ながらたいていの人は、谷崎の本を手に取るまでしませんから、印象が独り歩きします。

文法に関して記述している2章の「文章の上達法」が、谷崎『文章読本』の中核をなすと思います。この章が谷崎『文章読本』の価値でしょう。この章とその前の章を一部参照して、あらためて谷崎の日本語の文章と文法に対する考え方を確認してみたいと思います。

これは以前書いたブログ[谷崎『文章読本』への評価:清水義範『はじめてわかる国語』から]での宿題でした。3章からあとの話は、清水の言うことに異存ありません。[文豪谷崎潤一郎が大衆に向けて語った、文章よもやま話、に過ぎない]。

 

2 谷崎の言う「文法」の意味

谷崎は日本語の文法をどうとらえていたのでしょうか。5回言及しています。

(1)[日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法と云うものはありません]
(2)[日本語の文法と云うものは…大部分が西洋の模倣でありまして、習っても実際には役に立たないものか、習わずとも自然に覚えられるものか、孰方かであります]
(3)[日本語には明確な文法がありません]
(4)[今日学校で教えている国文法というものは…便宜上、非科学的な国語の構造をできるだけ科学的に、西洋流に偽装しまして、強いて「こうでなければならぬ」と云う補足を作ったのである]
(5)[私は文法の必要を全然否定するのではありません。初学者に取っては、一応日本文を西洋流に組み立てたほうが覚えやすいというのであったなら、それも一次の便法として已むを得ない]

日本語の文法項目には[日本語に特有な規則はありますけれども]、体系化されていません。(1)でいう「西洋語にあるような難しい文法」がないということになります。その結果、[文法的に誤りのない文章を書いている人は、一人もない]状態になったのです。

文法が文章を書くときに役立っていません。当時の日本語の文法は、(2)「西洋の模倣」が大部分で、(4)「西洋流に偽装」したものだったからです。いまも日本語に即した文法ができていません。よって今も、(3)「明確な文法」がないと言うしかないのです。

こうした日本語の文法の事情がありますから、「文章の上達法」で[第一に申しあげたい]のは[文法に囚われるな]と言うことです。ところが、こうした欠陥品ともいうべき日本語の文法も使い道があるかもしれないと語っています。それが(5)の話です。

 

3 谷崎自身の文章練習法

谷崎は日本語の文法が出来がよくないので、文法に囚われるなと言いました。しかし、[初学者に取っては、一応日本文を西洋流に組み立てたほうが覚え易いと云うのであったら、それも一次の便法として已むを得ない]と書いています。どういうことでしょうか。

▼この文章は、私が十数年前に書いた「鮫人」と云う小説の一節でありまして、代名詞の使い方がいかに気まぐれであるかを示すために、こゝに引用したのであります。当時私は、今でも多くの青年たちがそうであるように、努めて西洋文臭い国文を書くことを理想としておりました。 (中公文庫:p.79)

日本語の文法が「西洋の模倣」「西洋流に偽装」していただけでなく、日本語の文章自体が「西洋の模倣」「西洋流に偽装」をしていたのです。それを理想としていた時期があったのでした。従来の日本語の文章では、谷崎たちは満足できなかったのでしょう。

第1章にあたる「文章とは何か」の最後の文は以下です。[とにかく、語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその缺陥を補うに足る十分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません]。構造が不完全とあります。

従来の日本語には構造に問題がある…という認識を、谷崎あるいはその他の青年たちが持っていたということです。それを解決するために「西洋文臭い国文を書くこと」にしていたのです。そういう方法を「一次の便法として」使っていたのが谷崎たちでした。

▼たゞこゝに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、精緻で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしてもうまく行きとどきかねる憾みがあります。  (中公文庫:p.69)

ビジネス人は文章を、上記にあるように「精緻で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない」でしょう。しかし、こうした文について谷崎は、[この読本で取り扱うのは、専門の学術的な文章でなく]と言って対象外にしています。

しかし谷崎本人は「西洋文臭い国文を書くこと」を通じて、わかりやすい明確な文章が書けるようになったようです。谷崎自身が良い見本だとも言えます。『はじめてわかる国語』で清水義範は、谷崎の『文章読本』の文章がわかりやすい点を評価しています。

谷崎本人がどういう方法でわかりやすい文を書くようになったのか、『文章読本』にその秘密の一端が記されています。これが谷崎『文章読本』の価値でしょう。大勢の人の努力のすえ、戦後ずいぶん経ってから、日本語の文章構造が安定することになりました。

 

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