1 実力をつけるために必要なこと
文章を書くときには、誰に向けて伝えようとするのかを決めて、その人のニーズにあった内容を書く必要があります。簡単ではありません。学問なら、その水準が反映されますし、仕事に関することなら仕事の実力が反映されます。実力をつけるしかありません。
実力をつけるためには、相手にとって何が必要なことであるのかを考えることが必要です。文章作成が実力養成になります。自分の考えの拙さを表に出して、反省する機会にもなるでしょう。文章を書くということは自分の思考を見える形式にすることです。
学術論文なら書き方の形式がある程度決まります。その形式に従って構成すればよいでしょう。その構成の仕方に慣れる必要があります。学術論文とビジネス文書では形式に違いがあります。法律文書でも別の形式があるはずです。同時に共通性もあります。
2 必要とされる「記述」
文章を書くときに、どういう形式の文章が必要なのかをもう一度考える必要がありそうです。この点、谷崎潤一郎『文章読本』の前提が示唆に富みます。「なるべく多くの人々に読んで貰ふ目的で、通俗を旨として書いた」という1934年(昭和9年)刊行の本です。
谷崎は[精緻で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない][西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述]のための文章を、『文章読本』では対象外としているのです。現在私たちが必要とする文章を除外しました。
ビジネス人も学生も、正確に明確に書く文章が必要です。簡潔で的確な文章を書く必要があります。谷崎以下の文章読本の前提が、文章の練習をしなくてはいけない人のニーズに合っていないのです。「記述」が基本になります。山崎正和が指摘する通りです。
▼「ほらほら」と指で指しても、現象は存在することにならない。それがどういう形であるか、言葉による記述があってはじめて事実は存在することになって、論争が始まるんですね。ですから、全ての学問の基礎になり、社会生活の基礎になるのは記述なんですね。 『日本語の21世紀のために』
「誰に」を考え、その人にとってのニーズを見出して「何を」を決めます。それを「どのように」書くかが問題です。ビジネス人や学生に求められる文章の形式はある程度決まっています。その形式になるように「どう書いたらいいのか」ということが問題です。
3 書くときのルールに不要なもの
梅棹忠夫は自分の文章について、[一種の設計図みたいなもの]であり[極端にいえば、いかにうまい文章をかくかというようなこととはまるでちがう話で、どれだけ約束ごと、原則を厳密にまもるか、というようなことです](『梅棹忠夫語る』)と語りました。
谷崎は感覚を重視して、文法に囚われないようにと書いています。学問やビジネスで使われる「記述」ではない文章ならば、それで足りるかもしれません。しかし日本語で論文を書くときには、梅棹の言う通り[原則を厳格にまもる]必要があるのです。
書くときの原則、ルールが必要だということです。このとき従来の文法が使えないから、困るということです。学生も、主語と述語がわからないというのです。留学生に助詞の使い方の説明をすると、初めてわかる説明を聞いたと言われてしまいます。
文章を書くときに日本語文法で必要のない項目を、加藤秀俊は『なんのための日本語』で示しています。[「文」を品詞に分解したり、「飲む」という動詞の「未然形」「連用形」などという語法]はいらないのです。品詞や活用は重要項目にはなりえません。
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