1 日本語文法は不安定で不安な存在
英語と日本語は違いますから、英文法がそのまま日本語で使えることなどありません。そんなことは、わかっているはずです。しかし日本語文法が整備されていませんから、英文法を大いに参考にして、日本語を見ていく必要がありました。これも仕方ありません。
こうして現代日本語でも当初は「主語-述語」構造で文法を構築することになりました。ところが、もはや新版の『日本語教育事典』には「主語」の項目がありません。「主語-述語」構造の代わりに、「主題-解説」の構造が示されるようになっています。
英語でも「主題-解説」が使われているのは確かです。しかし文法事項とは別の扱いになっています。日本語文法はまだ不安定で、そのまま使うのには不安があります。『徹底比較 日本語文法と英文法』という本をのぞいてみましたが、困ったものだと思いました。
2 おかしな例文+おかしな解説
日本語文法がきちんと詰められていなくては、徹底比較などできません。『徹底比較』の第10章「日英語構文のミスマッチ」という興味を引く項目があります。そこには当然のように、日本語についての解説も示されていますから、少し見てみましょう。
「存在と出現」の章に例文を示した解説があります(p.224)。「このビルの2階には高齢者が働く」がおかしいのはわかるでしょう。では「2階では」はどうでしょうか。この本では可能としていますが、「このビルの2階では高齢者が働く」はやや不自然です。
次を見ると、「このビルの2階には高齢者が働いている」という例文が示されています。[「働く」を「働いている」にすると「2階に」が可能になる]とのことです。ヘンな日本語だと感じるでしょう。通常なら、「このビルの2階で高齢者が働いている」です。
3 日本語のニュアンスとは違う説明
「このビルの2階には高齢者が働いている」は、「-ている」の形式ですから、状態を示した文になっています。「どこで・どうしている」が自然です。「2階には」にする場合、「働いて」をカットして、「このビルの2階には高齢者がいる」になります。
こうした感覚でないと困ります。ところが次もヘンなのです。「体育館には子供たちが走った」を「体育館には子供たちが走ってきた」にすると可能になると言い、[「くる」がつくと出現を表す]とあります。日本語のニュアンスが読み取れないのでしょうか。
もう一度、以下を読んでみてください…「体育館には子供たちが走ってきた」。通常の文形式なら、「には」でなくて「に」でしょう。「体育館に子供たちが走ってきた」です。「には」ならば、対照的な文が想定されます。一文で独立、完結した感じがしません。
「体育館には子供たちが走ってきた」「図書館には歩いてきた」という形式になるはずです。いうまでもなく「出現」ではなくて、「行動の完了」です。次の「存在と所有」もこの調子で記述されています。有能なリーダーが日本語文法を無視するのも当然です。