■日本語の構造を理解するために:村上春樹の文章を例に

      

1 文構造がわからないという多数派

フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を訳した村上春樹は、この本の最後に「翻訳者として、小説家として-訳者あとがき」を記しています。そこに、フィッツジェラルドの文章についての特徴を以下のように書いていました。

▼フィッツジェラルドの文章には、音楽という類推(アナロジー)を使うと、より自然に理解できるところがある。時として彼の文章は耳を使って読まなくてはならない。そして声に出しながら移し替えなくてはならない。

村上はこの小説を最高のものとしています。丁寧に訳したはずです。この文章も、読んで意味の分からないところはないでしょう。しかし、ここで問題なのは、記された内容ではなくて各文の構造です。わからないという人が圧倒的多数になります。

     

2 日本語文法での説明

日本語の文法では、これらの文構造をどう説明するのでしょうか。益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法』「第1部 文の組み立て」には、文の基本構造において[骨格を成すものは、「述語」、「補足語」、「修飾語」、「主題」である]との説明があります。

この4つの要素で、文の構造がわかるでしょうか。「時として彼の文章は耳を使って読まなくてはならない」という文章なら、「彼の文章は」が主題でしょう。述語は「読まなくてはならない」のはずです。たぶん補足語はありません。その他は修飾語でしょうか。

「彼の文章は」「読まなくてはならない」が主題と述語になっている文だということになります。ところがこの説明では、「読まなくてはならない」のは誰なのかが見えないのです。主題と述語による説明では不十分だと感じる人は、少数派ではありません。

     

3 わかったと感じる多数派

私たちは、特別意識しないままに文末の主体を感じています。「読まなくてはならない」のは誰なのかを問われて、答えられなかったら読めていないのです。「時として彼の文章は耳を使って読まなくてはならない」ならば、「読者は」とか「私たちは」でしょう。

「私たちは…読まなくてはならない」というのが基本構造です。それがわかるからこそ、「彼の文章は」の役割がわかります。主体者たる「私たちは」、「彼の文章を」「読まなくてはならない」という構造です。「文章を」を強めたので「文章は」になりました。

「彼の文章は耳を使って読まなくてはならない」だけならば、「彼の文章は」+「耳を使って読まなくてはならない(文章である)」という構造も考えられます。しかしここに「時として」がついていますから、文末は「文章である」が欠落した形ではありません。

文末は「読まなくてはならない」に説明を加えた「耳を使って読まなくてはならない」です。どんな条件かといえば「時として」、誰なのかといえば「私たちは」、何をかといえば「彼の文章を」となります。この方がわかったと感じる人が多数派なのです。

     

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