■主語廃止論と述語廃止論:日本語文法の基本要素

      

1 英文法の「主語」と日本語の主語

日本語の文の基本要素について、前回記しました。現代の日本語文法の通説的な見解では、主語が文の基本要素ではなくなっています。主語概念について、さまざまな見解が示されていて、もはや明確な概念を示すのが無理かもしれないのです。

文の基本要素として主語を採用するのは混乱をきたす可能性があります。したがって基本要素に主語がないのは仕方のないことです。小池清治は『日本語はどんに言語か』で、主語廃止論を提唱して大きな影響を与えた三上章の見解について言及しています。

▼ここで論じられている「主語」は明らかに英文法の「主語」(subject)であるのだが、このような意味での「主語」は日本語にはないというのが、三上の主張である。これは全くその通りである。英語と日本語は異なる言語であり、一方の言語現象を基準にして、他の言語に全く同じ言語現象を求めることは、本来不可能なのだから当然なのである。 小池清治『日本語はどんに言語か』 p.125

      

2 英文法との対比は自然なこと

「主語」という上位の概念が明確であるならば、、英語の主語概念がどう、日本語の主語概念がどうだと論じられます。この場合、日本語の主語概念と英語の主語概念が違ってくるのは当然です。しかし上位にあるべき「主語」概念が明確になっていません。

岡田英弘は現代日本語について、[十九世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語、ことに英語を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確立することになった](『漢字とは何か』p.314)と一筆書きにしています。

こういう経緯から、英語の主語概念を意識することは自然なことでした。英文法は完成度が高く、そこから英語の主語概念を抽出することは可能です。しかし一方、上位にあるべき主語概念を明確にすることは簡単ではありません。三上を安易に批判できないのです。

      

3 「述語廃止論」

日本語の主語概念が英語と違う、だから日本語には主語がないというのは、妙な論法ではあります。それならば、述語はどうなるのでしょうか。そう考えるのは当然のことです。小池はこの点について、『日本語はどんに言語か』で言及しています。

▼この論理に立てば日本語には「述語」(predicate)も同様に存在しえないはずなのだが、三上は「述語廃止論」は唱えていない。これは不思議な論法というべきだろう。 『日本語はどんに言語か』 p.125

日本語の文の基本要素に主語を採用しないのは、仕方のない面があります。そうであるならば、述語の採用もおかしなことでした。主語・述語はセットとして扱うべきものです。自説で述語を文の基本要素としなかったのも、こんな理由からでした。

      

カテゴリー: 日本語 パーマリンク